2026年5月1日号
木村内科クリニック院長 木村 進
私の生まれは宇治市小倉町であり,父が同地で国民皆保険もない時代に開業した。父は軍医であり中国大陸において少尉として終戦を迎えた。その後,父の従兄弟にあたる,京都府立医科大学の講師を務めている方から勧誘を受け,同内科の研究科に在籍した。その後,学位を取り同内科の有給助手となった。その後,小倉町で私たちを育てながら開業した。しかしその開業地は当時十分な患者さんを獲得する地域ではなかった。従って父は異母兄弟である兄を連れて堺市に開業地を設けた。そこはすでに地方都市であり,十分な患者さんを獲得する場所であったと思われる。私は,その堺市の堺区に住み,小中高と学業を進めた。小学校6年の頃から父は私立大学医学部入学には一切金は出さぬと公言していた。よって私は小学校時代から国公立の医学部を目指すことになる。しかし私は遅咲きであり,中学頃から並み以上の成績を得ることになる。それまでは両親はかなり心配していたようだ。兄は阪大医学部に進み卒業し和歌山の紀南病院に就職する。その後兄嫁の出身地福井県小浜の市立小浜病院の内科医長として勤務し,その後,小浜市で開業する。以後開業歴を重ね,小浜市医師会会長になる。その兄の長男は京都府立医科大学に進学し消化器内科を専攻し,臨床教授になり現在,兄の後を継いでいる。兄はほぼ1年前87歳で死亡した。私は高校を現地の元女子高にあたる学校に入学し,その後,当時としては群を抜く勢いで大阪市立大学医学部に合格する。その後,父の旧友である堺の開業医から準硬式野球部に息子さんがおられるからと勧誘され準硬式野球部に入部する。入部後上級生から学年末試験の経過や講義内容,傾向対策を次々と我々にいただくことになる。しかし体調を崩し十分な勉学に至らず長期の大学生活を送る。しかし,ある教授が言うに「どうです,免疫学をやってみては?」と言われ大学院に入学する。大学院は面白く,私にとって勉学の熱量が再び戻った感じで図書館と研究室と病室を行き来しながら4年かかる大学院を2年少しで博士論文を2題提出する。教授の前で私はどちらを選びますか,と言った。選ばれた博士論文はそのまま受理され臨床の教室にすすむことになる。しかしそこに現れたのは当時助手である渡米帰りの医師であり,彼はその教室を牛耳っていた。その彼の影響により,私は十分に内科を習得することができず,大阪府内の慢性期病院に勤務を移す。その後病院では老健施設の施設長や診療所の所長を歴任し,開業への経過をたどる。そこに現れた開業ブローカーが今の京都府与謝野町にある診療所を継承物件として提示する。その後,私は家族と相談し,家族の了解を得てその地に赴く。その後開業は順調に立ち上がり地域の信頼を得る。私は勤務医よりは開業医の方が向いているなと感じた。その後2013年に国家的アプローチであるプライマリケアに関する専門医制度の案ができる。私はまだ十分な臨床医ではないと感じ,その専門医を目指す。今現在,総合診療専門医は国家的プロジェクトであり国にとって重要な意味を持つ専門医である。しかし従来の開業医にとってその専門医は本来あった臓器別専門医とは違った医師の思考を展開する必要があり難しい専門医だと感ずる。また従来持っている開業医の制度そのものを改革する意味があり,国,行政,学会にとって重要な国家的プロジェクトになる。