2021年1月15日号
○江戸時代後期の医療(7)
〈幕末のシーボルト 2度目の来日〉
前号で記述したようにシーボルト(1796~1866)の初来日は、徳川幕府が海外から開国を激しく迫られる文政年間(1818~1829)の1823年でした。彼の任務は長崎出島のオランダ商館医及び日本の総合的学際的研究(内情視察)でした。6年後、帰国の際に国外持ち出し禁止の日本地図「大日本沿海輿地全図」の写しを持ち帰ろうとした罪で(シーボルト事件)、1829年シーボルトは国外追放及び再渡航来日禁止処分を受けました。彼は長崎・小瀬戸浦で妻タキ、娘イネ、門人たちに別れを告げますが、それまでに日本各地で採集・収集した日常生活用品、民具など5000点以上、哺乳動物の標本200種、鳥類・魚類・爬虫類の標本、無脊椎動物の標本5000種、植物の標本12000種と植物そのもの2000種を自国に持ち帰っています。在任期間中にも上海経由で日本の産物をあれこれ箱に詰めて送っているので、シーボルトには偏執的収集癖があったと思われます。但し、それら膨大な収集品は帰国後、ライデン(オランダ)民族博物館に収蔵され、大いに日本を西欧に知らしめました。
それから30年後、2度目の来日は1859年(安政6)、1度目の阿蘭陀(オランダ)商館付医官としてではなく「オランダ通商会社顧問」の肩書で、その任務は「日蘭通商条約改正案」を日本国に持参して承諾を得ることでした。すでに前(1858)年、幕府大老井伊直弼(なおすけ)(1815~1860)が勅許を得ず独断で米・英・蘭・仏・露と5ヶ国修好通商条約を結び、反幕派を弾圧する「安政の大獄(1858~1859)」が起きています。このような開国をめぐって幕府崩壊の危機に再来日したのがシーボルトでした。今回の在日期間は短く、1862年1月に離日するまでの2年9ヶ月でした。その間、長崎を離れたのは江戸、横浜に出かけた1861年4月から翌年1月です。横浜では外人居留地に滞在して発展著しい港や村を歩きまわり、江戸では麻布の赤羽根接遇所が宿舎で、5月28日高輪の東禅寺で英(イギリス)公使オールコックが水戸藩攘夷派浪士に襲われる事件に遭遇します。シーボルトは危うく難を逃れたオールコックを見舞い、負傷者たちの治療にあたりました。その滞在中、彼は幕府から海外事情の相談役を要請される一方で日本退去勧告を受けるなど去就定まらずでしたが、正式に離日が決定すると置き土産に長崎奉行、外国奉行、外国掛老中に開国を迫る海外情勢の問題点を提起、書簡のやり取りで多忙に過ごします。さて、残るは日本人妻・楠本タキとの間に生まれた娘・イネ(1827~1903)のこと。シーボルトは父として長崎の鳴滝邸と周辺一帯を離日の1ヶ月前、1862年4月にイネ名義で購入、娘に安住の地を与えていきました。彼は1862年5月7日に出島を出港、ドイツ・ボンの自邸に戻ったのは11月でしたが、すぐさまオランダで日本の収集品整理・展示・出版に2年を費やし、その官職を完(まっと)うしました。思えば、シーボルトはドイツ人でありながら蘭(オランダ)領東印度(インド)陸軍外科医として日本長崎出島に赴任(1823年)して以来40年、途切れることなくオランダと日本に愛着を持ち続け、なおも1865年70歳で3度目の来日を計画していました。しかし、翌年風邪をこじらせ肺炎から敗血症で死去(1866年10月18日)しました(異説にミュンヘンの自邸で脊髄の手術を受けた後の炎症悪化死亡説あり)。
(京都医学史研究会 葉山美知子)