京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その22 ―

○江戸幕末の医療(9)
 〈幕末の京都・木屋町通と志士たち〉①

 木屋町通(きやまちどおり)は京都の南北の通りの1つで、北は二条通から南へ三条・四条と下り、七条通まで歩いて30 分余り、2km 強の通りの呼称です。この通りは、ほぼ高瀬川に沿っています。高瀬川は慶長14 年(1609)に都の名だたる豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)(1554 〜1614)と息子素庵(そあん)によって開鑿(かいさく)された運河です。そもそも京都の歴史は鴨川によるところも多く、かの後白河法皇(1127 〜1192)も「鴨川の流れと比叡山の僧には手のつけようがない」と嘆いたほどで鴨川はたびたび大洪水をおこす暴れ川でした。そこで了以父子は、鴨川の水を二条に引き入れ運河・高瀬川を開いたのです。高瀬川は運河として都の物流運搬に大きく貢献し、つい100 年前、大正9年(1920)まで高瀬舟が行(い)き交(か)っていました。
 さて、今号は幕末の木屋町通界隈の話です。幕末とは江戸幕府が米(アメリカ)・英(イギリス)・仏(フランス)・露(ロシア)・蘭(オランダ)の5ヶ国から開国と通商を迫られ、明治天皇へ政権返上する大政奉還まで1853 年〜1867 年あたりです。その幕末に京都は不穏な空気でピリピリしていました。二条通を南へ高瀬川に沿った「木屋町通」は昼夜を問わず、志士たちの溜(た)まり場、潜伏(せんぷく)場、密談場だった感があります。木屋町二条の「一ノ船入」から高瀬舟で伏見に下り、そこで大坂(明治以後に大)に向かう淀川の舟運に通じますから、志士たちは必然的に、この木屋町界隈を軸にして活動しています。その活動も次世代に実を結ぶこともありましたが、暴漢に襲われ命を落とすことも多々あったのです。
 それでは木屋町通、北から志士たちの寓居(ぐうきょ)(とりあえず、仮りの住まい)や邸、又は襲撃されたり殺害された場所をみていきます●人物、木屋町通の場所、内容 の順に記していきます。

●島田右近(1862没)……二条善導寺前 安政の大獄に志士を多く送りこみ恨みをかって天誅(てんちゅう)をうける
●大村益次郎(1869没)……三条木屋町二番路地の旅館 国民皆兵政策で暴徒に襲われ2ヶ月後死去
●佐久間象山(1864没)……御池上ル西側 朱子学・蘭学者だったが、開国論を所々に説いたため攘夷(じょうい)派志士に斬殺
●武市半平太(1865没)……二条上ル東側に寓居 土佐郷士で攘夷論者だったが、藩主が開国派に鞍替え、土佐で投獄され切腹
●吉村寅太郎(1863没)……三条上ル東側寓居 土佐脱藩浪士で過激尊皇倒幕派で天誅組の統裁、大和五条で挙兵したが、追討の諸藩兵に敗れて鷲家石ノ本で壮烈死
●池田屋事件(1864)の地……三条西入ル北側 京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が、尊王攘夷派志士を襲撃した地
●酢屋……三条下ル一筋目西入ル 材木商を営む、坂本龍馬率(ひき)いる海援隊(貿易結社で薩長両藩を支援、陸援隊は倒幕活動をした土佐藩士の組織で別)を支援、海援隊の本部で大政奉還をめざす
●後藤象二郎(1897没)……三条下ル二筋目西入ル南側寓居 土佐藩士、坂本龍馬に啓発され将軍慶喜に大政奉還を建白、明治期に政府の要職につき一族は繁栄

 上記以外にも木屋町通が寓居、事件現場、集会密会場になった例は枚挙に遑(いとま)がありません。次号は大村益次郎の最期(さいご)を考察します。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2021年3月15日号TOP