2021年4月15日号
○江戸幕末の医療(10)
〈幕末の京都・木屋町通と志士たち〉②
大村益次郎(1824~1869)その1
益次郎の生まれは周防(すおう)の国・鋳銭司(すぜんじ)村(現・山口市鋳銭司町、JR山陽新幹線・新山口駅の程近く)である。また三田尻は益次郎が村を出て東西往還の際に利用する船の港町である。
ところで「大村益次郎」の名は死没する4年前に長州藩から拝命したもので、元の名は村田である。鋳銭司村の祖父良安(りょうあん)、父孝益(こうえき)と続く漢方医の村医者である。幼名は宗太郎、医業を継ぐにしろ医術はすでに漢方から阿蘭陀医学が主流、宗太郎も蘭方医の道をめざすことになる。天保13(1842)年、19歳で三田尻の蘭医・梅田幽斎に入門、優秀ではあったが、十代で漢学を習得していないため蘭語医書の解釈に限界が生じ、師の幽斎に豊後日田の儒学者広瀬淡窓(1782~1856)の咸宜園(かんぎえん)の入塾を薦(すす)められる。宗太郎はさっそく日田に赴き、1年余りの在塾で大いに淡窓の先鋭的思想に触れたと思われる(淡窓は塾生に「農兵採用論」を説いている、この思想は後年大村益次郎が主張した「四民徴兵」に通じるのではないだろうか)。ところで、この塾の入門届けに「周防国三田尻 村田宗太郎 二十歳 入門 天保十四(1843)年四月七日」と自筆で記入しているという(筆者未見)、それであれば咸宜園入塾までは「宗太郎」を名乗っていたことになり、「良庵」の改名は宗太郎が再び三田尻の幽斎の梅田塾に戻った後のことであろう。鋳銭司村の村医者ではなく、蘭学を究める蘭方医・村田良庵をめざすことにしたのだ。向学心に燃える良庵は、当時の最高蘭学塾である大坂・船場の緒方洪庵の「適々斎塾」(天保9(1838)年設立)の入門を幽斎に願い出た。それを幽斎は快く許可し推薦状を持たせて良庵を送り出してくれた、時に弘化3(1846)年春、良庵23歳であった。良庵は熱望した適塾に入門を認められた、そしてまた改名に及ぶ。入門証に「村田良庵改、蔵六」と自署しているというし、入門挨拶時に自ら洪庵に改名したことを告げている。「村田蔵六」の誕生である。「蔵」は土蔵の蔵で◦貯蔵する ◦納める ◦包み込む、「六」はこれから学ぶ蘭医学の6科目を表わし「蔵六」とは適塾の学問をすべて我に納めるという決意を名に込めたと思われる。ともかく蔵六は飛びっきりの頭脳の持ち主である、春に入塾して秋には最上級のクラスに進級している。講義は生理学と病理学が中心であったが、合間には犬猫の解剖や処刑された人間の腑分(ふわ)けに立ちあい、蘭語の原書も楽に読みこなせている、蔵六はもっともっと高みをめざそうと洪庵に蘭学の本場、長崎行を志願した。そして適塾に入門して半年過ぎた秋の9月に、蔵六は洪庵から塾出身の蘭学者で医院を開業している奥山静叔(せいしゅく)への紹介状を頂いて長崎へ遊学したのである。1年半の滞在の後、大坂に戻ったのは嘉永元(1848)年春であった。蔵六のことである、長崎でも目一杯体験してきた蘭医方の臨床や理論はそのまま適塾に応用された。その翌年、嘉永2(1849)年26歳にして蔵六は俊才揃いの適塾の塾頭に任命される!……その蔵六が20年後の明治2(1869)年、暗殺された、それも医師ではなく兵部省兵部大輔(ひょうぶたいふ)・大村益次郎として……(次号は46 歳に至る20 年間の足跡を探る)
今号よりです・ます調からである調に変更いたしました。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)