2021年5月15日号
○江戸幕末の医療(11)
(幕末の大村益次郎と長州軍)③
大村益次郎 その2
前月号で蔵六の前半の人生は「醫」の道を究め、嘉永2(1849)年には大坂の蘭学・医学塾「適々斎塾」の塾頭を務めるに至ったところまでを記した。しかし、翌年、父の「実家の医院を継いでくれぬか」という鶴の一声で蔵六はあっさり塾頭を辞して大坂を去り、周防の片田舎・鋳銭司(すぜんじ)村に戻った。とはいえ、時代は蔵六を村医者にしておかなかった。彼の多彩な頭脳に目を付けた四国愛媛・宇和島藩主、伊達宗城(むねなり)(1818~1892)がいた。宗城は「幕末の四賢侯」といわれる開明的藩主の一人である、無謀にも日本初になる軍艦の建造を蔵六に命じた。「やりましょう」と即答したものの、さしもの自信家・蔵六も無手勝流ではなす術(すべ)もなく、長崎に下り、小1年かけて軍艦の構造から学び設計にこぎつけた。そして安政2(1855)年、蔵六32歳、宇和島湾に軍艦「宇和島丸」が進水した。その4(1859)年後、江戸の千住回向院(せんじゅえこういん)(現・墨田区両国にある浄土宗寺院)で死刑女囚の腑分(ふわ)けを蔵六が執刀しているので医術の行為はあるものの、以後は兵学者の道に舵を切るのである。
翌年、万延元(1860)年という年は、正月早々に勝海舟一行は軍艦蒸気船・咸臨丸(かんりんまる)で太平洋横断してアメリカへ、3月には江戸城桜田門外で大老井伊直弼(なおすけ)が水戸浪士に暗殺され、幕府終焉(しゅうえん)が迫る。蔵六は生まれ故郷の長州に戻り長州藩士(37歳)になった。山口・萩にある洋式兵学校「博習堂」の指導者養成を任されるが、1年で長州藩の江戸詰めを命じられる。文久2(1862)年、江戸麻布の長州藩邸に赴く、蔵六はこの藩邸で高杉晋作の訪問を受けている。晋作に好印象をもったらしいが、世の中は日増しに不穏な情勢に覆われる。元治(げんじ)元(1864)年は◦天狗党の乱、◦池田屋事件、◦蛤(はまぐり)御門の変、◦四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊の下関報復砲撃、◦佐久間象山暗殺など幕府を滅亡に追い込む事件が頻発した。そこで幕府は災異改元(さいいかいげん)を行い、江戸時代最後の年号「慶応」(1865~1867)を迎える。
慶応元(1865)年暮れ、蔵六は藩命によって「大村益次郎」と改名する。いまや蔵六は押しも押されぬ蘭学者であり、実利実益を重んじる西洋兵学者で長州藩の用所役・軍政専務という要職にあった。彼は長州藩の命脈をつなぐために藩出身の桂小五郎・高杉晋作、土佐出身の坂本龍馬、中岡慎太郎らと共に倒幕の意志を固め、長州征伐側幕府軍を迎え撃(う)つ態勢に及ぶ。長州側は高杉晋作を総司令官、幕府軍は徳川家茂(いえもち)が総帥(そうすい)、慶応2(1866)年6月開戦。戦場は4ヶ所、蔵六は山陰の浜田で石州口の戦場を陣頭指揮した。長州側の兵士は近代銃器・西洋式服装・黒半笠に統一され、巧みな蔵六の戦術で勝利した。しかし、この戦いは7月に征長軍(長州征伐)総帥の将軍家茂が戦いの最中、大坂城で死去(21歳)してしまい、ただでさえ敗色濃い幕府軍の士気阻喪(そそう)、戦意喪失(そうしつ)で長州征伐は中止になってしまった。一方、蔵六や高杉晋作たち長州藩側は意気軒昂(けんこう)で、その余勢(よせい)を駆って翌年慶応3(1867)年、大政奉還の実施・王政復古の大号令が発せられるのである。
さて、いよいよ次号は蔵六(大村益次郎)のつかのまの活躍と悲劇の最期です。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)