2021年6月15日号
○江戸幕末の医療(12)
(幕末・木屋町通の暗殺)④
大村益次郎 その3
益次郎の1860年代を語る。
明治維新(1868)までのほゞ10年は、益次郎が国事に積極果敢に取り組んだ年月であるが、京都では木屋町通界隈で暗殺者が跋扈(ばっこ)した10年でもあった。慶応3(1867)年10月・大政奉還、12月・王政復古の大号令が立て続けに発されて明治の世になる。
益次郎は新政府の軍政専任になり、岩倉具視卿の推薦で最高軍務官に就任、明治2(1869)年7月には軍事トップの「兵部大輔(ひょうぶたいふ)」を拝命した。益次郎は近代国家にふさわしい兵制度の制定を急務とした、それは国民を遍(あまね)く募(つの)って常備国軍を組織するという徴兵制の国民皆兵論であった。木戸孝允(長州派)を取り込んでの皆兵論は、西郷隆盛・大久保利通(薩摩派)の猛反対にあう。曰(いわ)く百姓・町人を兵士に仕立てると旧来の職業軍人たる武士は職を失い食い扶持(くいぶち)消滅、一族郎党は路頭に迷うことになる、という皆兵論反対の狼煙(のろし)をあげる不平分子の輩(やから)が刺客となり、立案の元締め・益次郎を血祭りにするべしと躍起になるのは必定(ひつじょう)。それを察知した益次郎周辺は警備を一段と強化した。兵部大輔となった年(1869)の7月27日に東京を出立、山城・大和・河内・和泉など畿内(きない)の軍事施設の予定地の視察に向かう。いずれの視察も順当に終了、京都に着いたのは8月13日である。京都でも息つく間もなく伏見・宇治の朝日山・大坂城・天保山などを見廻ると8月が過ぎていた。
そろそろ東京に戻ろうかという9月4日にコトが起きた。宿は木屋町通・御池通上ル押小路東入ル2番路地、益次郎は2階で旧知の訪問客2人と夕食を囲んだ。そこへ神代直人(こうじろなおと)・団信次郎以下暗殺団13名が襲撃、益次郎たち3人を刺殺に及んだ。2人は絶命、益次郎のみ重傷を負いながらも逃げのびた。すぐに近隣の医師・新宮凉民(凉庭養子)が駆けつけ応急処置を施し、河原町の長州藩屋敷に移送した。傷は真向割(まっこうわ)りで額を10cm斬られ、右脚は膝蓋骨(しつがいこつ)を砕(くだ)かれ太腿(ふともも)にかけて12cmの長さ、深さ5cmの深手を負っていた。治療のほどは一向に効無く、政府の鳩首協議の結果、来日中の御雇い外国人医師・ボードウィンに診てもらうべく10月1日増次郎を担架に乗せ、高瀬舟で高瀬川を下り伏見から淀川を経て大坂府仮病院に運び込んだ。
ボードウィン(1820~1885)はオランダ・ユトレヒト生まれ、ユトレヒト陸軍医学校出身、三度来日しているが益次郎を診察したのは最後の来日時である。益次郎の容体(ようだい)は好転せず悪化の一途、ついにボードウィンは右太腿の切断を決意、10月27日(この年、10月は29日まで)に手術したが敗血症のため7日後の11月5日に死去、46歳であった。今際(いまわ)の言葉はオランダ語で「さようなら」だったという。それであれば今生(こんじょう)の別れを意味する“Eeuwig afscheid(エーウァハ アフシェイヅ)”であろうか。増次郎が望む最期は医学者でも兵部大輔でもなく蘭学者としての最期だったかもしれない、そう言えば益次郎の遺言で、切断した右脚は大坂の緒方洪庵(1810~1863)の墓の傍(かたわ)らに埋葬されている(亡骸は益次郎の出生地山口県鋳銭司(ずぜんじ)村に埋葬)。益次郎が生涯で最も崇敬した人物といえば、やはり適々斎塾を開いてあまたの傑出した人材を世に送り出した医師であり蘭学者の緒方洪庵であったに違いない。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)