京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その26 ―

○江戸幕末の医療(13)
 楠本イネ(1827〜1903)シーボルトの娘 その1

 我が国で女医と言えば、奈良時代に遡って養老律令(718年制定)の「醫疾(いしつ)令」(唐の医事制度に倣ったものである)第16条に「女醫(じょい)」の記述に始まる。即ち、女醫の採用は賤民の階層から15~25歳の賢い女子30人を選び、男子の醫博士が教育したのである。しかし、以後の歴史で丹波康頼(たんばやすより)(912~995)、曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507~1594)のような輝かしい画期的な業績を残した女医は現われない。近世・江戸中期に土佐の女医・野中婉(のなかえん)(1661~1726)が、小説や劇・映画などに取りあげられてよく知られてはいる。
 さて、今回登場する人物は「楠本イネ」(1827~1903)である。そもそもイネは女医である前にシーボルト(1796~1903・先号に既述ズミ)の娘であった。母は長崎丸山寄合町・引田屋卯太郎抱遊女「其扇(そのぎ)」(1807~1869)、本名楠本タキである。
 父・シーボルトは、バイエルン王国のビュルツブルグで生まれたドイツ人で、1820年にビュルツブルグ大学医学部を卒業した(因みに祖父・カール・パスカル・シーボルトが1787年に男爵の位を授与されている)。シーボルトは「オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐」の肩書をもらう。任地はジャワのバダビア(ジャカルタ)で、そこから改めて日本の長崎出島、オランダ商館の商館長付き医官を拝命し、新商館長スチュルレルと1823年8月11日(文政6年7月6日)に出島に着任した。
 当時の日本は開国を求める外国の声に神経を尖(とが)らせ、唯一その窓口であった出島は厳重に管理されていた。出島の蘭人(オランダ人)は島外には一歩も出られず、出島に出入り出来る日本人は許可を受けた役人・商人と丸山遊郭の“阿蘭陀(オランダ)行き遊女(蘭人相手をする格の低い遊女)”であった。長崎の町に遊女は766人いたというが、“日本行き遊女(日本人の相手をする最高遊女)”はわずか10人で其扇(タキ)を抱えていた引田屋には◦頼山陽(1780~1832) ◦大田蜀山人(1749~1823) ◦大隈重信(1838~1922) ◦山縣有朋(1838~1922)などが豪遊している。
 1823年秋、任官まもない若いシーボルト(27歳)は時を置かず、阿蘭陀行き遊女其扇(数え17歳)と懇(ねんご)ろになり、4年後の文政10年5月6日(1827・5・31)、其扇は「イネ」を出産する。出産場所が出島か、実家の父・楠本左平の銅座町長屋かは不明であるが、出産直後、乳母を雇う際に乳母を遊女に仕立てて出島の其扇の元に送り込んだという町役人の証言がある。
 その後、タキ(其扇)はシーボルトが日本を退去させられる文政12(1829)年末まで出島で親子3人で暮らす(タキが書き残した手紙に「長年にわたって出島でお前様と暮らした」とある)。だからこそ、シーボルト専任のお抱え絵師・川原慶賀は、出島の阿蘭陀屋敷のあちこちでイネを抱(だ)くタキとシーボルトの親子姿を描けたのである。しかし、その幸せはシーボルトが日本国地図持ち出しの嫌疑(シーボルト事件)で帰国を余儀なくされ、母娘は父シーボルトと離別して幕を閉じる。シーボルトは2人の今後の暮らしむきを慮(おもんばか)り、日本で得た財産を可能な限り2人に残し、信頼できる優秀な門人の高良斎(こうりょうさい)(1799~1846)と二宮敬作(1804~1862)に母娘の後事(こうじ)を託す。母・タキ・24歳、娘・イネ3歳、イネは混血児である。白膚・碧眼(へきがん)・紅毛……すらりと背が高く、青い眼に抜けるような白い膚を取り囲む紅味がかった茶髪、長じて明眸皓歯(めいぼうこうし)の女医イネが誕生する。

―続く―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2021年7月15日号TOP