2021年9月15日号
○江戸幕末の医療(15)
楠本イネ その栄光 1873年 その3
イネは前号に記したように、1845(弘化2)年19歳にして父シーボルト一族の家業であった医学の道を選択した。イネの向学心はすさまじく、1859(安政6)年、御雇い蘭人医師・ポンペが長崎で初めて解剖実習を行った際、各地から集まった見学者46名のうち唯一名の女医が33歳の楠本イネであった。ポンペはイネについて「最も経験のある日本の解剖学者の1人と言うべき知識と技術の持ち主であったし、医術の指導的立場にあった」と高く評価している。
イネの履歴によると二宮敬作に産科外科を学びながら、長崎出島の御雇外国人医師に医術指導を受けている。そこには「一.安政六(1859)年以来明治二(1869)年マデ都合拾壱ヶ年 当港出島在留ノ和蘭(オランダ)人ドクトル=ポンペ氏及ビ同ドクトル=ボードエン氏、同ドクトル=マンス(マンスフェルト)氏に引続キ随従 産科医術修業仕候。」と記載されている。その修業のさなか、1864(元治元)年3月、イネ(38歳)は医術の手ほどきを受けた二宮敬作(1796~1862)ゆかりの伊予宇和島に赴いた。イネは時の宇和島8代藩主・伊達宗城(むねなり)の覚えめでたく、藩侍医に登用された。藩主宗城は幕末四賢侯と呼ばれた1人であり、開明的で新しがり屋であった。イネの運命は、この宇和島伊達藩主の好過で大きく展開していく。そもそもイネはあのシーボルトの娘であり、日本の文化の窓であった長崎出島で生まれ育ち、各地に散らばったシーボルトの高弟たちという豊富な人脈に囲まれ、御雇外国人医師に西洋医学を学んだ女医であった。
1865(慶応元)年、イネは宇和島城下に「楠本医院」を開業、産科を主体に外科・眼科・内科・小児科を診療した。その繁昌(はんじょう)ぶりはその年の閏5月下旬にイネ自ら「宇和島に参ってからというもの、日夜、昼夜なく数限りない病人に責めたてられ、実に寸暇もなく、多忙のきわみ」と知人への無沙汰を詫(わ)びる程であった。そしてその多忙さは、1870(明治3)年イネが東京築地壱番地に居を移し産科医院を開業した後々まで続いた。そしてイネのこのような実績と卓越した産科医の腕前を見込まれ、思いもよらぬ要請が飛び込む。かねてよりの知人、福沢諭吉や宮中漢方医賀川満載、医務局長長与専斎などの推薦であったが、1873(明治6)年7月29日、イネは「宮内省御用掛」から通達を受け取る。それは「長崎縣下銅座町楠本以祢(イネ)、右之もの御用有之候間、明後丗一日午前十時永田町当御用屋敷罷出候様、相達可有之、此段申入候也、明治六(1873)年七月廿九日、宮内大小丞」という内容であった。「楠本以祢 権内侍(ごんのないし)・葉室光子(1853~1873)妊娠ニ付キ御用掛リ申附候事」、続いて「出産道具に関する打ち合わせのために九月七日に出頭せよ」等々、明治天皇(1852~1912)の権内侍(側室)葉室光子(20歳)の出産に産科医として臨むようにという要請である。天皇の世継(よつ)ぎ誕生であったが、9月18日「皇子御降誕されるも死産」、光子も4日後の22日、21歳で死去した。しかし、イネは「御降誕之節、格別骨折候」として金一封を下賜(かし)され「皇室御用達産科医」として最高の栄誉を賜ったのである。以後、1877(明治10)年2月に築地の楠本医院を廃業するまで産科医のトップランナーであった。
(京都医学史研究会 葉山美知子)