京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その29 ―

○近代明治期の医療(1)
 森鷗外の頭脳 その1

 そもそも森鴎外(1862~1922)は医人であろうか、文人であろうか、はたまた軍人なのか、イヤイヤいずれも鷗外である。鷗外は医学博士であり、文学博士であり、かつ軍医総監なのである。どれも十分社会で尊ばれる立派な肩書である。しかし、鷗外は死去する4年10ヶ月前に著した『なかじきり』には「わたくしは医を学んで仕えた。しかし、かつて医として社会の問題に上ったことはない」と断言し、続けて「多少社会に認められたのは文士としての生涯である」と記していて「医」で評価されることを望んでいない、というより拒(こば)んでいないか。多分「脚気(かっけ)論争」についての苦い記憶が頭から消え去らないのであろう。たとえそうであったとしても鷗外の60年の生涯は燦然(さんぜん)ときらめいている。
 鷗外は文久2年1月19日(1862.2.17)、石見(いわみ)国津和野(つわの)町田村(島根県鹿足郡津和野町町田)の地に代々津和野藩の典医を務める家柄に生まれた。父・森静泰(静男・医師)の長男で姓は源、諱(いみな)は高湛(たかやす)、本名は林太郎(りんたろう)。
 さて、鷗外、彼の頭抜(ずぬ)けた優秀さは幼少時から顕著で、5歳で『論語』を読み解き、12歳で第一大学区医学校に入学し(年齢が足りず2歳水増す)、東京医学校(後に東京大学医学部)を明治14(1881)年7月、19歳で卒業している。在学中から専門外の文芸分野に興味が向き、その上、卒業時に下宿先が火事で医学の講義ノート一切が焼失、ついでに肋(ろく)膜炎まで患う不幸が重なる。医学部生23人中8番の成績では彼が熱望したドイツ留学の夢は叶わず、次善の策としてその(1881)年の12月に陸軍入りを決意する。その卒業から軍務につく間のわずか5ヶ間に父静男が東京千住に開業した医院「橘井(きっせい)堂」で若先生として勤務している。
 陸軍では軍医・副の身分で東京陸軍病院治療課僚(ヒラ官員)の地位でしかないが、変わらず留学希望を表明するかたわら、独自に陸軍の衛生制度の調査を始める。それから2年、明治16(1883)年に課内からドイツ留学の上申書が提出されるに至った。翌17(1884)年6月、鷗外22歳で官費留学がついに実現、メンザーレ号で横浜港を出帆した。10月11日、ベルリンに到着、すぐさま留学目的の西欧の衛生制度の調査と軍隊における衛生学の必要性などを学ぶために行動開始。
 ベルリンからライプチッヒ、ドレスデン、ミュンヘンを歴訪、優秀で実践力のある医学者や科学者、文学者たちを直撃、大いに見聞を広めながらも日本の実情をなんら臆する事なく堂々と現地で演説し、誌上で論駁(ろんばく)を試みる。これらの実績に比例して彼の人脈は飛躍的に拡散していった。世界的細菌学者のコッホ、ケッペンコーフェル、ロート、ナウマンなどその交友の数は記載が追いつかない。帰国は明治21(1888)年9月、鷗外弱冠26歳、丸4年に及ぶドイツ留学は彼を送り出した政府高官や援護者の誰もが期待した以上の成果を日本にもたらした。帰国後、彼は陸軍軍医学校教官に加えて大学校教官及び陸軍衛生会議事務官を兼任する。
 いずれの役職も神経をすり減らす激務に違いないが、西欧での4年間の濃密な生活体験は鷗外をして政治、文学、芸術、医学衛生の多方面に一層の深化と拡散をもたらしていくことになる。

―次号に続く―

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2021年10月15日号TOP