京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その30 ―

○近代明治期の医療(2)
 森鷗外の頭脳 その2

 鷗外の60年の生涯は「ほぼ陽(ひ)のあたる人生」であった。19歳で東京帝国大学を卒業、陸軍に任官して陸軍軍医となり、瞬(またた)く間に軍医総監に昇り詰める。その栄光の途次、彼は九州小倉(こくら)に赴任した。長男・森於菟(おと)は「小倉時代は父の一生で一つの転換期とも見られる」と指摘している、鷗外は明治32(1899)年6月19日から明治35(1902)年3月26日までの2年9ヶ月、37歳から40歳を小倉で過ごした。
 彼は島根県津和野生まれではあるが、10歳で家族と上京してから後は東京を離れたことはない。念願のドイツ留学(1884・6月〜1858・7月)も果たし、順風満帆(まんぱん)な軍医生活を送っていた明治31(1898)年、36歳の彼は皇居東側坂下門にあった近衛師団の軍医部長兼軍医学校長を拝命して、ますます意気軒昂(いきけんこう)であった。ところが翌32(1899)年6月「陸軍軍医監(ぐんいかん)」への転任、その赴任先は東京から遥か彼方(かなた)、九州小倉であった。
 この人事異動は誰の目にも左遷と写った。事実、彼は即、辞任の決意をしたが囲りの取りなしで思いとどまり赴任先に向かったという経緯があった。しかし、この小倉赴任は息子が述べたように鷗外のそれまでの人生観にいくばくかの修正をもたらした人々との出会いがあった。
 まずはドイツ人医師ベルツ(1849〜1913)である。エルヴィン・フォン・ベルツは明治9年に御雇(おやとい)外国人医師として来日し、明治38年にドイツに帰国するまでほぼ30年を日本で暮らし、大正天皇の侍医になっている。明治32(1899)年7月、ベルツは小倉にいた。沖縄出身兵士の体格調査のために小倉駐屯地に滞在していた。鷗外は7月28日から4日間続けてベルツの宿屋を訪問、2人は魯西亜(ロシア)や朝鮮、支那(しな)、台湾などの民族や医療情勢を談じたり、学者加藤弘之(1836〜1916)や福沢諭吉(1835〜1901)の人物評を論じた。双方、独語・日本語に不自由なく談論風発が続き、さぞかし愉快な4日間であったろう。のちにベルツは日本の暮らしを振り返って「今一(ひと)ツ、余の忘れることの出来ぬ日本人が一人ある。それはドクトル森のことだよ。あの頭はやっぱりドイツ型だね。その物言いから動作までドイツ人そっくりだよ。森という男は実に智慧(ちえ)の満ちみちた立派な頭をもっている。どうしても只の日本人ではないネ」と評している。
 また明治32(1899)年に来日し、小倉の教会に配されたフランス人神父ベルトランは、鷗外にフランス語を教授した人物だが「森さんは最も強い印象を私に残した」と語り、フランス語をものにしたのは彼だけだったと述べている。
 そしてその翌(1900)年10月、皇太子嘉仁親王(1879〜1926)(後の大正天皇)が九州巡行の旅に出た。親王は5月に公爵九条道孝女(むすめ)節子と結婚の儀に際し、鷗外は小倉から上京してその儀式に正装で参列して親王からお言葉を頂いていて、その5ヶ月後である。宮内省の命により、10月19日午後2時に小倉駅で巡行中の親王を出迎えることになった。下車後、師団司令部に赴いて閲兵し、また建設中の官立八幡製鉄所を視察などして21日午前9時40分に小倉駅を出立する親王を見送ったのである。とにかく公私多忙な軍医監鷗外であった。
 次回は鷗外の脚気(かっけ)論争についてである。脚気は近代においても罹患(りかん)することが多く国民病とされていたが、鷗外は細菌による伝染病説を唱え栄養欠乏説と対立する。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2021年11月15日号TOP