京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その31 ―

○近代明治期の医療(2)
 森鷗外の頭脳 その3

 この期(ご)に及んで私はこの「京都医報」に鷗外を如何に記述すべきか考えあぐねている。陸軍軍医であった鷗外は医学博士であり、文学博士である。明治期の国民病の1つであった「脚気」について脚気菌という細菌による「病原菌説」を頑迷に唱え、結果的に数万人という病死者を出してしまった。その鷗外という人物は、この上なく複雑で重層的に思える。
 鷗外は幕末文久2(1862)年1月、石見(いわみ)国(島根県)津和野藩の典医・森静男の長男に生まれ、⃝19歳で東京帝国大学医学科を卒業(1881年)した俊才  ⃝22歳~26歳までドイツ(ライプチッヒ、ミュンヘン、ベルリン)に留学 ドイツ式衛生医学を学んだ学理派  ⃝29歳(1891)、医学博士  ⃝31歳(1893)、一等軍医正かつ陸軍軍医学校長になる。  ⃝45歳(1907)、軍医トップの陸軍軍医総監になる。  ⃝47歳(1909)、文学博士となり作品発表多し、文学者鷗外は漱石と並び称されることがある。  ⃝性格は集中粘着型で拘泥(こうでい)する気質が顕著。
 さて「脚気論争」であるが、高木兼寛の「栄養障害説」と鷗外の「病原菌説」の論争であった。「脚気」は江戸時代に主食を雑穀から白米に替えた層や白飯のみで食事をすます人々に起きた疫病で江戸の町に多くの患者が出たことから「江戸わずらい」とも呼ばれた。明治維新を経て新生日本を迎える。西欧の列強諸国に追いつけ追い越せとばかりに富国強兵策をとり、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~1905)に突入する。鷗外は陸軍軍医としていずれにも従軍し、日清戦争では朝鮮・中国・台湾を転戦して1年後に帰国(1895)したが、戦場では兵士4000人が脚気で病死していた。その10年後の日露戦争(1904~1905)では戦没兵士8万9000人のうち脚気病死者は2万8000人に及んだ。鷗外は前述の如くドイツ留学(1884~1888)を果たしているが、その留学の目的は  ⃝衛生学研究と  ⃝陸軍医事調査であった。そして留学2年目の明治18年10月に「日本兵食論大意」を来責(ライプチッヒ)で発表した。そもそもの要点は兵食に関してであり、「日本陸軍の兵食は旧来の米食でよろしいか否か」を科学的根拠で裏付けることにあった。
 「兵食論」は「東洋人民の食は其品類許多(きょた)なれども、其常食は魚米なり」で始まり、西洋人民は麦から製した蒸餅(パン)牛羊豚等と記す。続いて「我邦(くに)の兵は毎人毎日米六合(約一キロ)と金六銭」であり、「独逸(ドイツ)国の兵は、毎人毎日蒸餅(パン)七百五十瓦(グラム)、生肉五十瓦、其他一種の澱粉多き食品と食塩とを受領す。」鷗外は、日本の学者に「西洋食を推す者が多く、海軍にては決然西洋食を給するに至れり。陸兵にも西洋食を給しては如何との問題を講究するは無用の弁に非ざるべし。」と陸軍兵士の西洋食を断固はねつけ、毎日米6合食が適切と雄弁に語る。そして結論する。
 「米を主としたる日本食は、其調味宜(よろ)しきを得るときは、人体を養ひ心力及び体力をして活溌(かっぱつ)ならしむること、毫も西洋食と異なること無しと公言し得るなり。」
 鷗外は生涯この説を翻(ひるがえ)すことはなかった。

(続く)

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2021年12月15日号TOP