2022年4月15日号
○近代明治期の医療(5)
野口英世 その2
野口英世とノーベル賞
大正2(1913)年5月、ニューヨークの英世(37歳)は故郷・福島県猪苗代の高等小学校の恩師小林栄(1860~1940)先生に「多分、一両年のうちにノーベル賞金が私のもとに来るであろうとはアメリカやヨーロッパの医学界の噂です、小児麻痺・梅毒・狂犬病などの私の研究に対し、過般スウェーデン国皇帝アルフォンソ陛下より勲章をお贈りいただきました」と封書で近況報告をしてノーベル賞授賞の可能性を示唆(しさ)している。事実、英世は前評判でも医学・生理学ノーベル賞に最も近い医学者として認知されていた。翌大正3(1914)年ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したが、ノーベル賞主催国のスウェーデンは小国であり中立国としての立場から敢(あ)えて王立科学アカデミー・カロリンスカ研究所はこの年のノーベル賞授賞者を発表した。因みに生理学・医学賞はオーストリアのローベルト・バーラーニ(1876~1936)の「内耳の三半規管に関する生理学・病理学に関する研究」に対してであった。英世は1900(24歳)年に渡米して1904年からニューヨーク・マンハッタン島にあるロックフェラー医学研究所に在籍する。1911年には梅毒の病原体「梅毒スピロヘータを発見したと発表、13年には小児麻痺と狂犬病の病原体を発見、相次いでそれらの成果を発表したのである。この間の同ノーベル授賞者とその内容は
・1911(明治44)年:グルストランド(スウェーデン)、眼の屈折機能
・1912(大正1)年:カレル(フランス)、血管縫合及び臓器移植
・1913(大正2)年:リシュ(フランス)、アナフィラキシーの研究
であり、翌年1914年から1918年までノーベル賞の発表はなかった。大戦後は
・1919年:ボルデ(ベルギー)、免疫に関する諸発見
・1920年:クローグ(デンマーク)、毛細血管の調整機構
と続く。英世が前述しているようにノーベル賞授賞の可能性は高く、1914年・1915年・1920年の3度も候補にあげられている。
1914年度は候補者63人のうち、最終選考11人の1人に残った。1915(39歳)年度も候補者31人中、最終候補9人の1人に選ばれたが、この年からノーベル賞は大戦中の1918年まで中止されてしまった。
再開は1919(大正8)年で生理学医学賞はベルギー人のボルデ、1920年はその候補者57人に英世(44歳)は選ばれているが授賞したのはクローグであった。この年を最後に英世は候補者名簿から消え去るが、1910年代(34歳~43歳)の10年間に素晴らしい実績を積み上げていく。まずは20代から手がけていた「蛇毒」の研究に始まり、30代で英世の最も重要な功績と言われる「梅毒スピロヘータ」の純粋培養に成功したこと(37歳(後に否定された))である。この2つの業績によりロックフェラー研究所、ペンシルベニア大学、京都帝国大学、東京帝国大学からは学位や博士号を授与され、スペイン・デンマーク・スウェーデン各国政府は英世に勲3等を叙勲した。そしてその勢いで1914(大正3)年には既述したノーベル賞候補の1人に挙げられるまでになったのである。一方、日本における英世は立志伝の人物として修身の教科書に登場し、唱歌でも「野口英世」という題で歌われる。2番の歌詞は「やさしく母を労(いたわ)って 昔の師をば敬(うやま)って 医学の道を踏(ふ)み究(きわ)め 世界にその名を挙げた人」であった。 ―つづく―
(京都医学史研究会 葉山 美知子)