2022年7月15日号
○近代明治期の医療
野口英世 その5
英世の黄熱病研究
さて、とどのつまり野口英世(1876~1928)の医学的業績は何であったろうか。辞典では「日本の細菌学者」と記されている。ドイツ人・ロベルト・コッホ(1843~1910)は「近代細菌学の開祖」と言われ、炭疽(たんそ)菌(1876)・ブドウ球菌(1878)・結核菌(1882)・コレラ菌(1884)など次々に発見、またゲオルグ・ガフキーは腸チフス菌(1884)の培養に成功、破傷風菌の培養は1889年、エミール・ベーリングと北里柴三郎が純粋培養に成功している。このように1880年代前後は感染症の原因が目には見えない微生物の仕業(しわざ)であることが判明していて、細菌学者は血まなこになって微生物を追い求めていく。その微生物を拡大する顕微鏡も同時に開発される。暗視野顕微鏡(1900年代)・位相差顕微鏡(1930年代)・微分干渉顕微鏡(1950年代)が発明され、共焦点レーザー顕微鏡が開発されている。1930年代前半にドイツのエルンスト・ルスカにより電子線を用いた透過型電子顕微鏡が発明され、いよいよ電子顕微鏡時代の到来である。
ところで英世であるが、1900年12月に渡米して以後(一度1915年に日本に帰国)、死去するまで28年間のアメリカ生活であった。
血清学研究のため、1903年から1年程デンマークに留学するが、アメリカに戻ってロックフェラー医学研究所の所員となってからは、終生当研究所に在籍、1908年に梅毒研究に取り組み1913年には黄熱病(Yellow Fever)の研究を始め、生涯をかけることになる。
1910年、著書「梅毒の血清診断」を刊行、1911年には進行性麻痺(まひ)及び脊髄癆(せきずいろう)患者の脳中に「梅毒螺旋(らせん)状菌(スピロヘータ・パリーダ)」が存在することを実証し、梅毒病原体を発見したと発表してヨーロッパ各国を講演、大反響を呼んだ。その実証は梅毒病原体(スピロヘータ)を何百羽という兎(うさぎ)の睾丸(こうがん)に接種する、数週間でスピロヘータが発生、その菌を別の兎に移植することを繰り返して浄化を進めて純粋培養する。兎の心臓・脳・睾丸などを乳鉢でゴリゴリと擂(す)り潰(つぶ)して試験管に入れ、取り出して薄切りして何千枚ものスライドガラスを作り、一枚一枚顕微鏡で覗(のぞ)いて病原体を見つけようにしたのだ。1911年8月、ついに梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと英世は確信した。顧(かえり)みればドイツのシャウデンとホフマンが1905年に梅毒病原体を発見したという報告から6年、英世の執念と根気で成し遂げたことになる(しかし、後続追試では誰も同定が出来ていない、現代では英世の実験は否定されている)。
1915年、ロックフェラー研究所は「黄熱病対策と撲滅(ぼくめつ)」をめざす。当時、黄熱病は悲惨な感染症で黄疸(おうだん)・高熱・嘔吐(おうと)・譫妄(せんもう)などの症状が出て致死率も高かった。
1918年、英世は黄熱病が流行しているという情報を得て南米エクアドルのグアナキルに赴いた。そして到着9日目には黄熱病菌(トレポネマ・パリズム)を発見したと発表、しかし、螺旋状の微生物は黄熱病のそれではなく、酷似するワイル氏病の病原体であった。黄熱病の病原体の正体は「細菌」ではなく「ウィルス」であった。英世が如何に駆使しても光学顕微鏡では見ることは叶わず、没後の1930年代に開発された電子顕微鏡の登場を待たねばならなかったのである。黄熱病解明に半生を費やした英世も報いられることはなかった。
(京都医学史研究会 葉山 美知子)