京都医学史研究会 医学史コーナー 醫の歴史 ― 医師と医学 その40 ―

○近代明治期の医療
 野口英世 その7
 英世の妻・メリー
 野口英世(1876~1928)は満24歳、1900年(明治33)12月にアメリカに渡った。その生涯は黄熱病と梅毒(黴瘡(ばいそう)・瘡毒(そうどく))の研究に明け暮れた。昼夜お構いなしの気狂いじみた暮らしぶりは、英世に結婚して安定した家庭を持ちたいという欲求をもたらした。
 1908年(明治41)12月、32歳の英世は日本の郷土の恩人、小林栄(1860~1940)に嫁を世話して欲しい旨の書状を送った。まず現状は「相談するにも途方に暮れたる次第である」と述べ、曰(いわ)く「昼間は全力を注(そそ)いで研究し心身渾朦(こんもう)たるまで疲労し、六時頃帰家して見れば燈火もなき暗き部屋に独りで入り点火し、床(とこ)をなおし、其他万事淋しき男世帯……中略……若(も)し御存知の人の内にて、小子(しょうし・小生)に婚を許す意ある方(かた)有之(これあり)候わば、御面倒ながら御一報被下度(くだされたく)候。」という何とも情けない、海を隔てたアメリカからの訴えであった。ところがその状況の展開を待たずして英世は1911年(明治44)4月10日に結婚していた。
 相手はアメリカ人Mary Loretta Dardis(メリー・ロレッタ・ダージス、1876年~1945年)である。父・アンドルーはアイルランドからの移民でペンシルベニア州・スクラントン市ラッカワナ郡に移住した。ラッカワナは19世紀から20世紀にかけて石炭採掘(さいくつ)で賑(にぎ)わい、ヨーロッパ移民を積極的に受け入れていた。メリーの父と3人の弟も「日雇い炭坑夫」と職業名に記載されていた。メリー一家は炭坑長屋に住んだが非常に貧しく、メリーはニューヨークで職を得るためスクラントンを離れた。彼女が何を生業(なりわい)としていたか定かではない。1904年(明治37)、28歳のメリーはデンマーク留学から帰国した英世に再会した。一度目は英世が渡米して時を置かない頃に酒場で知りあった、再会後は二人して大いに飲み語らい親しくなっていく。前述の1908年に日本の嫁を渇望(かつぼう)したことなど全く意に介さず、1911年に英世(34歳)はメリー(35歳)との婚姻届けを州の民事判事に提出したのである。
 しかし、英世はメリーとの結婚を勤務先のロックフェラー研・友人知人・日本の家族の誰にも知らせていない。年が明けて同僚所員に発覚して通り一遍の結婚挨拶はしたが、恒例のお披露目パーティーは無しにした。というも巷(ちまた)のメリー評は ◦大酒飲み(ロックフェラー研は酒を飲まない集団) ◦無教養(英世が属するインテリ集団の妻たちと生活・文化レベルが違う) ◦白人移民の貧乏一家 であったから敢(あ)えてメリーを晒(さら)したくなかったのだ。
 それでも英世はメリーを大層好んだ、英世の諸研究に全く関心を示さず自由にさせてくれることが何より有難かった。日中、英世は研究所に出かけ、実験・論文作成で忙しく泊まりこみも多々あり家に戻れない。一方、家事全般家庭経営を親から教えられず不得手(ふえて)なメリーは、英世のいない夜は35歳以前の独身時代さながらに仲間と飲んで騒いで愉快に過ごしたが、英世は咎(とが)めることなく平穏な暮らしが続いた。
 2人はニューヨーク・セントラルパークの西側マンハッタン街1番地の5階建てビルの最上階(家賃32ドル(25万円位))で暮らした。英世が1928年(昭和3)黄熱研究のため西アフリカのアクラ(現ガーナ首都)に赴きその黄熱病に斃(たお)れるまで、1911年から17年間の結婚生活であった。

(京都医学史研究会 葉山 美知子)

2022年9月15日号TOP