2022年10月15日号
○近大明治期の医療
野口英世 その8
英世 アフリカへ
1927年、秋 英世(1876~1928)は西アフリカに渡った。そしてそのアフリカ行きは死出の旅でもあった。
今から95年前、1927年10月22日、英世はサイツアイ号でニューヨーク港を出帆した。大西洋を西から東へ横断してイギリスのリバプール港へ10月31日到着、11月2日アッパム号に乗り換え一気に南下してポルトガル・リスボン、モロッコ・カサブランカを経由、カナリア諸島を抜け、セネガル・ダカールに至り、さらに西アフリカの象牙海岸に沿ってギニア湾に面したガーナ西端のアクラ(現ガーナの首都)に11月18日朝到着した、実に27日間の船旅であった。
アクラでは既にイギリスが黄熱病の研究所を設立、病院と研究所がある。所長はイギリス人のウィリアム・ヤング(1886~1928.5.29)で妻を伴って赴任していた。一方、アメリカのロックフェラー財団探査隊の黄熱病研究本部は、アクラの東500km程離れたナイジェリアのラゴスにあり、双方の往来は当時は汽船で1泊2日を要した。
英世は当初、何かと便利で開けている港湾町ラゴスに上陸予定であったが、黄熱病はアクラで流行っているという情報を得て11月18日、アクラに上陸した。
アクラでの研究滞在期間は6ヶ月限定であり、その間に研究成果を出して実績をロックフェラー財団に報告する義務が課せられ、それは使命でもあった。英世は実験のための多種器具や用具、動物実験用のアカゲザル200匹の調達など多忙の日々で1927年の12月が終わった。年が明けて1928年1月早々、英世は黄熱病患者発生の報を受け、村に出かけたのだが、数日後に自分が軽症の黄熱病に罹患(りかん)してしまう。軽症ですんだのは自ら開発した黄熱ワクチンを事前に打っていたからとワクチンの効用に自信を持ったと同時に今回黄熱病にかかったことで今後は後顧(こうこ)の憂いなく黄熱病解明に打ち込めると喜んだ。そしてついに3月19日、英世は「黄熱病を引き起こす微生物を発見した」と恩師フレキスナー博士に報告、続けて「西アフリカ黄熱病についてのこの研究は間違いなしという空前の確信に満ちている」といかにも自信たっぷりに微生物発見の報を記している(しかし、英世のこの一連の発表内容はいずれも同定出来ず否定された、なお発見したという微生物は「枯草菌」であった)。
ところで英世は西アフリカ滞在6ヶ月の成果が十分に実ったとして、1928年5月19日アクラを発(た)ちアメリカに帰国することにした。しかし、その前にラゴスのロックフェラー財団本部へアクラ離任の挨拶だけは欠かせない。5月9日(水)、ラゴス行きの船に乗り、ラゴスで10日(木)、11日(金)の2日間、本部の充実した施設を見てまわった。その2日目の金曜日の午前、英世は不気味な悪寒(おかん)を感じたが熱もないし恙無(つつがな)く日程をこなして船でアクラに戻ったのは翌土曜日5月12日の昼であった。すでに体温は39.4℃に上がって英世は虫の息、英世の同僚マハフィー博士は事の重大さを察知、夜にアクラの大病院ヨーロピアン病院に入院させた。
英世の病名は黄熱病、13日(日)には嘔吐や頭痛、関節の痛みを訴える……。(続く)
(京都医学史研究会 葉山 美知子)